叔母との思い出

優しさを繋いでいく。

小学三年生の夏休み2泊3日で、東京の東村山に住む叔母の家まで、電車で初めて一人旅をした。
その当時、恐竜が大好きだったので後楽園の恐竜イベントに行くための旅だった。
初めての一人旅だったので本当に不安だらけだったが、優しい叔母と親戚のお兄ちゃん達にエスコートしてもらい無事にたどり着くことができた。
叔母は料理上手で、その日も叔母の家に着くと焼きたてのパンの香りに包まれて、その時の香りは今でも思い出せるほど強烈な幸せの香りだった。

しかし、その夜思いがけないことが起こった。普段、水を水道から直接コップに入れて飲んでいたが、山梨の水と東京の水では水質が違った事、それに加えて初めての一人旅の緊張からかおなかを下してしまったのだ。
しかもそれは一晩中続いたので、朝起きると布団を下した水便で汚してしまっていた。
恥ずかしさと申し訳なさでその日僕はふさぎ込んでしまい、親戚の兄に後楽園に連れて行ってもらったがあまり記憶に残っていなかった。

そして、その翌日帰りの中央線に向かう途中、叔母とこんな会話をした。
「おばちゃん、ごめんね。泊まりに来て布団をうんちで汚して、本当に迷惑をかけてごめんね。それなのに優しくしてくれて…」という僕に対し、叔母はこう言葉をかけてくれた。
「昨日から何度も聞いたよ、洋ちゃん…叔母ちゃんやお兄ちゃんに優しくしてもらったのが申し訳ないというなら、今度はそのもらった優しさを叔母ちゃん達に返す必要はないから、友達や困ってる人を見かけたときにあげてくれればそれでいいよ」と。

その後時は経ち、定年を迎えた叔父と一緒に叔母は夫婦で山梨の田舎に引っ越してきて野菜を育てながら優雅に隠居生活を始めたのだが、ある時叔母に先ほどの話を鮮明に覚えていて忘れられない思い出となっているという話をしたら、叔母もそのことを強く覚えていて、叔母目線でのその時の話をしてもらえて、とても嬉しかった。

そして二年前、叔父が難病を患ってしまい、叔母は介護に明け暮れることになるのだが、難病だったため叔父は中々落ち着いて入院できる病院が見つからずに困惑していた。
そんな中、たまたま前職場が一緒で子供も同級生の知人が数年前に転職し、地元の病院の事務長をしていたので、僕がその方に叔父の件を相談すると快く引き受けてくれ、すぐに叔父の入院手続きがすみ、叔父が命を引き取るまでの約1年間手厚く介護をしてもらうことが出来た。

叔父の葬儀が終わり、ひと段落して叔母と話をしたとき、「洋ちゃん、本当にありがとう。あの時の恩を何倍にもして返してくれて本当にありがとう。」と言ってくれた。
僕はその時、そんなつもりはなくたまたま仲良くさせて貰ってた方に相談して、その方が「僕の親族なら」と動いてくれただけだったのだが、「それこそが今までのすべての行いの積み重ねだと」叔母は改めて感謝してくれた。

僕の考え方の中で初めて自覚して意識し続けてきた『自分が困ってる時に人に優しくされて嬉しかったら、困ってる人を見かけたときに優しくしてあげなさい』という叔母の言葉は僕の思考の大きな一つとなっている、幼少期の思い出だ。

MESSAGE 01

『自分が困ってる時に人に優しくされて嬉しかったら、
困ってる人を見かけたときに優しくしてあげなさい』

祖母との別れ

『大丈夫だよ』と『ありがとう』

2014年4月30日で大好きだった祖母が他界してちょうど1年が経ちました。
これは祖母がよく話してくれた話です。

幼いころ韮崎に住んでいた祖母は友人たちに無理やり手伝わされ人の家の柿を盗っていた。友人二人が柿を下に流れる川に棒で落とし祖母は拾う役であったが、幼かった祖母は柿を拾おうとしたときに川に落ちてしまい、流されてしまった。意識を失い流されているときに不思議な夢を見た。

流されている川が二股に別れており、片方は大きくて綺麗でしかも向こう岸でお祭りをやっている、それはそれは楽しそうな場所。もう片方はただの細い川。
どうにか楽しそうな方に行きたかったのだが、亡くなっていた祖母のおじいさんが『こっちにくるんじゃねぇ!』と怖い顔で怒った。
そのまま祖母は細い川に…しばらくして田んぼの近くで発見され、一命をとりとめたという。

その間がどのくらいの時間だったかはわかりません。そして、祖母が見たものが夢なのか現実なのかもわかりませんが、実際にその時二股に分かれていた大きな川は釜無川。
そちらに行っていればきっと命は無かったでしょうし、僕も存在していませんでした。
そんな経験から祖母は「人が見ていなくてもお天道様が見てるから、悪いことはするんじゃないよ」といつもいつも言っていました。
男2人女5人兄弟のなかで祖母は一番の苦労人だったと周りは言っており、家では毎日草むしりや部屋の掃除や畑仕事と、共働きだった両親に変わりほぼ全ての家事をやっていました。
私が小学校から帰ってくると煮物の良い香りがして、よくつまみ食いさせてもらっていたことを覚えています。
生涯、祖母が作ってくれたロールキャベツを越える物はないでしょう。
色々な事情で僕と子供二人で実家に戻ってきた時も祖母の煮物は健在でした。ただ、少しずつですが煮物の良い香りより焦げの煙たい香りが漂うことが多くなり、味も変わっていました。
それでも、相変わらずいつも部屋を綺麗にしていたり、穏やかな表情は健在でした。

祖母が90歳の時に転倒して大腿骨を骨折し、家族も「このまま寝たきりになってしまうのかなぁ…」と思っていましたが、持ち前の負けん気でリハビリを頑張り退院し、なんとまた自分の足で歩けるようになるまで回復したのです。
それだけでも本当に凄いなと思っていましたが、その足でまだ一歳になったばかりのうちの子を「余りにも泣くもんで、おんぶ紐でおぶって散歩してきたよ」と笑顔で話す祖母に、感謝とともに肝を冷やした事もついこの間のように覚えています。
また共に暮らしはじめてからも92歳で肋骨を骨折し、94歳で骨盤にヒビが入り、と何度も入退院を繰り返しながらも「曾孫の成長だけが楽しみだ」と言いながら、いつも大好きな家に帰って来るためにつらいリハビリにも耐え、寝たきりになることなく元気に過ごしていました。

祖母と息子

僕が大好きな、祖母と息子の一枚。

また、お花が大好きで毎年この時期になると【ハーブ庭園旅日記】か【明野フラワーパーク】に連れて行ってあげていました。
亡くなる前、半年間は介護ベッドが必要になったりしましたが、実際に本格的な介護は3ヶ月間しかしていませんでした。その間は食事を口に運んであげたり、下の世話なんかもさせてもらいました。
ある時、僕が「おばあちゃん、嫌づら?孫に下の世話されるの…」と聞いたときに祖母は「そんなことないさよぉ。有難いさ」と即答してくれました。
でも、祖母は元気な頃本当に毎朝お仏壇に向かって「早く迎えに来てください」と、そして僕ら家族にも「みんなにだけは迷惑かけたくないから、朝気づいたらコロッと亡くなっていたい」としょっちゅう言っていました。
だから、きっと辛かったはずなんです、なのに即答で「有難い」という言葉がでるのは、本当にこんなに弱っているのになんて強いんだろうと思いました。

そして、2014年4月29日、ちょうどお店開店準備中だった僕は自由な時間が多く祖母の介護の時間を多くとっていたのですが、ちょうど今頃朝御飯を終えてデイサービスに送り届けました。デイサービスから帰ってきて夕飯を食べようとした時に食事を口元に持っていっても口にせず少しずつうなだれていき、このままではまずいとベッドに連れて寝かせてあげました。
その時に「おばあちゃん!大丈夫け? 」と聞いた僕に『大丈夫だよ…』と力なく答えてくれました。祖母が生前最後に発した言葉です。
そして、1年前の今日、訪問看護の方がきて「本日午前中もつかどうか…」と言われましたが、家族が集まれる夜まで祖母は頑張りました!
孫や曾孫に囲まれながら少しずつ息を弱めていき、呼吸をするのが本当につらそうで見ているだけで涙が溢れそうだったのですが、みんなで交代しながら枕元で感謝を伝えていました。
そして、母が話しかけているときに急に目を開いて起き上がり、部屋全体を見回してまた目を閉じました。
訪問看護師の方がもう「最後です」と…僕も母もビックリして急いで子供達を呼んで「ひばばに最後にありがとうって言ってあげて」と、すると子供たちはそれはそれは耳を塞ぎたくなるような大きな声で…
「ひぃ~ば~ばっ!ありがと~!」と声をあわせベッドを囲みながら伝えました。
すると、今にも息を引き取りそうな祖母の目から涙が溢れました…聞こえてたんです…
それを見て子供たちも半分泣きながらもう一度大きな声で『ありがとう』と、それが祖母が最後に聞いた言葉です。

97歳という大往生でした、最後まで祖母から学んだことは本当に沢山あり、数えきれません。
皆さんに僕が伝えたかったことは、これからもし自分の大切な人を看取る機会がありましたら、思い出や感謝を伝えてあげてください。
どうか最後までその人が寂しくなるような話はしないであげてください、ということです。

祖母とお花

「ひばばが好きだから」と、子供たちが葬儀の際に摘んできたお花。

MESSAGE 02

何よりも思い出や感謝を伝えたい。